棺の中に潜む見えない危険―ドライアイスが招く二酸化炭素中毒
第119回医師国家試験 C問題 第47問
国試問題にチャレンジ
58歳の女性。既往歴に特記すべきことはない。昨日,交通事故で死亡した息子の通夜があった。息子の傍にいたいと言って棺が安置されている部屋に行ったまま,朝になっても帰ってこないのを不審に思った夫が部屋に行ったところ,棺内に上半身を入れた状態で死亡しているのを発見した。 死因で考えられるのはどれか。
- a.トルエン中毒
- b.硫化水素中毒
- c.一酸化炭素中毒
- d.二酸化炭素中毒
- e.ホルマリン中毒
対話形式の解説
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ドクターまとめ
棺の中には遺体保冷用のドライアイスが入っており、昇華した二酸化炭素は空気より重いため棺の底にたまって高濃度になります。棺に上半身を入れて長時間過ごすと、高濃度のCO2による窒息と呼吸性アシドーシス・CO2ナルコーシスによって、自覚症状に乏しいまま急速に意識を失い死亡しうるため、本例の死因は二酸化炭素中毒と考えられます。一酸化炭素は不完全燃焼、硫化水素は下水道・温泉・洗剤の混合、トルエンは塗装やシンナー、ホルマリンは標本や解剖用遺体の固定と、それぞれ発生状況が異なり、棺の中に発生源はありません。CO2は発酵タンク、サイロ、井戸、ドライアイスを入れた車内などでも事故の原因となります。中毒の原因物質を発生状況から推定する考え方は、法医学的な死因判断だけでなく、事故予防の助言にも役立ちます。
解答・解説
正解はdです
状況の整理
・58歳の女性で、既往歴に特記事項はない。病死を疑わせる基礎疾患はない。 ・前日に、交通事故で亡くなった息子の通夜があった。 ・息子のそばにいたいと言って棺のある部屋に行き、翌朝、棺の中に上半身を入れた状態で死亡しているのを発見された。
死因を推定するプロセス
この問題の鍵は「棺の中に何があるか」である。日本では、火葬までの間に遺体の腐敗を遅らせるため、棺の中にドライアイス(固体の二酸化炭素)を入れて冷却するのが一般的である。ドライアイスは常温では液体を経ずに直接気体へ変わり(昇華)、大量の二酸化炭素(CO2)を放出する。CO2は空気の約1.5倍重いため、ふたのある棺や納体袋のように周りを囲まれた空間では、底のほうにたまって高濃度になる。 本例は、棺に顔を近づけたり上半身を入れたりした状態で長くとどまった。そのため、高濃度のCO2を吸い込み、短時間で意識を失い、そのまま吸入を続けて死亡したと考えられる。高濃度のCO2は、酸素を押しのけて窒息を起こすだけではない。CO2そのものが呼吸性アシドーシス(血中CO2の上昇による酸血症)と中枢神経の抑制を引き起こすため、警告となる自覚症状が乏しいまま急速に意識を失うのが特徴である。
設問へのアプローチ
選択肢の毒物のうち、通夜の部屋に安置された棺という環境で、通常発生しうるものを考える。トルエン、硫化水素、一酸化炭素、ホルマリンは、いずれもこの状況で発生源が想定できない。一方、ドライアイス由来の二酸化炭素は十分に説明がつく。実際に、棺や納体袋に顔を入れた遺族がドライアイスによる二酸化炭素中毒で死亡した事故が国内で報告されており、消費者庁なども注意を呼びかけている。
選択肢考察
- ×a. トルエン中毒
トルエンは塗料・接着剤・シンナーなどに含まれる有機溶剤である。急性中毒では、中枢神経の抑制による酩酊やめまい、意識障害、不整脈などを起こす。慢性の吸入では小脳失調や白質脳症、遠位尿細管性アシドーシスなどを来す。シンナーの乱用や、換気の悪い場所での塗装作業などで起こる中毒であり、棺の中に発生源はない。
- ×b. 硫化水素中毒
硫化水素は、火山・温泉地帯、下水道・汚水槽、製紙工場などで発生する、腐卵臭のある有毒ガスである。かつては入浴剤と酸性洗剤を混ぜて発生させる自殺も問題になった。ミトコンドリアのシトクロム酸化酵素を阻害して細胞が酸素を使えなくなり、高濃度では即座に意識を失う。高濃度になると嗅覚が麻痺して臭いを感じなくなる点も危険である。本例の状況では発生源が考えられない。
- ×c. 一酸化炭素中毒
一酸化炭素は、炭素を含む燃料の不完全燃焼で発生する。火災、換気の悪い室内での練炭・ストーブ・ガス湯沸かし器の使用、車の排ガスなどが原因となる。ヘモグロビンとの親和性が酸素の200倍以上あり、組織への酸素運搬を妨げる。遺体には鮮紅色の死斑がみられるのが特徴である。本例では燃焼器具の使用などの記載がなく、棺内で発生する理由もない。
- ○d. 二酸化炭素中毒
棺の中には遺体を保冷するためのドライアイスが入れられている。ドライアイスから昇華した二酸化炭素は空気より重く、棺の中にたまって高濃度になる。棺に上半身を入れた状態で長時間過ごせば、高濃度の二酸化炭素を吸い込んで急速に意識を失い、死に至る。状況から最も考えられる死因である。
- ×e. ホルマリン中毒
ホルマリンはホルムアルデヒドの水溶液で、病理標本や解剖後の臓器の固定・保存に用いられる。蒸気は強い刺激臭があり、眼・気道の粘膜を強く刺激する。そのため、意識を保ったまま長時間顔を近づけ続けることは考えにくい。一般的な通夜で、棺に安置された遺体の保存にホルマリンを使うことはなく、本例の死因としては考えにくい。
二酸化炭素濃度と症状
大気中のCO2濃度は約0.04%である。建築物衛生の基準では、室内濃度0.1%(1,000ppm)以下が求められている。目安として、数%で頭痛・めまい・呼吸促迫が現れ、7~10%程度では数分で意識を失いうる。さらに高い濃度ではごく短時間で意識を失い、呼吸が停止する。高濃度のCO2は、酸素欠乏による窒息と、CO2そのものの毒性(高CO2血症による呼吸性アシドーシス、CO2ナルコーシスによる中枢神経の抑制)の両方で作用する。
ドライアイスの性質と事故
ドライアイスは固体の二酸化炭素で、約-79℃で昇華する。1kgのドライアイスから、常温・常圧でおよそ500L余りのCO2ガスが発生する。CO2は無色無臭で空気より重いため、棺・納体袋・車内・地下室・冷蔵庫など囲まれた空間や低い場所にたまりやすい。死亡事故として、遺体に添い寝したり棺に顔を入れたりした遺族の例のほか、ドライアイスを入れた車内に長くとどまった例などがある。通夜などでは、棺のふたを開けたまま長時間顔を近づけない、部屋を換気するといった注意が必要である。
法医学的に重要な中毒の発生状況と特徴
・一酸化炭素:不完全燃焼(火災、練炭、排ガス)。鮮紅色の死斑。 ・硫化水素:下水道・温泉・火山、洗剤の混合。腐卵臭。死斑が緑色調を帯びることがある。 ・二酸化炭素:ドライアイス、発酵槽(ワイン・醤油などの醸造タンク)、サイロ、井戸、古い地下室。無色無臭。 ・酸素欠乏症:マンホール内、タンク内など。 ・シアン化合物:めっき工場、火災時の合成樹脂の燃焼。アーモンド臭。鮮紅色の死斑。 ・有機溶剤(トルエンなど):塗装作業、シンナーの乱用。
POINT
・棺の中にはドライアイスが入っている。棺に上半身を入れて死亡していれば、二酸化炭素中毒を考える。 ・二酸化炭素は無色無臭で空気より重く、閉ざされた空間や低い場所にたまる。 ・高濃度の二酸化炭素では、警告となる症状に乏しいまま急速に意識を失う。 ・中毒の原因物質は、発生状況(どこで、何から発生したか)から推定する。
