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「手術を拒んでいた人」が意識を失ったら―リスボン宣言が示す救命の原則

第110回医師国家試験 C問題 第19問

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第110回 C問題 第19問

55歳の女性。飛び降りによる腹部外傷のため救急車で搬入された。1か月前に胃癌と診断され,ここ数日は絶望して気持ちが不安定になっていた。今朝,自宅マンションの8階から飛び降りて受傷した。大量の腹腔内出血があり救命のためには速やかな開腹止血術が必要である。ショック状態で患者の意識はなく,意思の表示はできない。患者本人は以前から癌に対する手術治療を拒否していたが,救急車で付き添って来た夫は開腹止血術や救命治療を希望している。  リスボン宣言に基づく対応はどれか。

  1. a.速やかに開腹止血術を行う。
  2. b.開腹止血術以外の方法で経過をみる。
  3. c.院内倫理委員会を開催するよう要請する。
  4. d.本人と配偶者との意見が異なるため,他の家族の意見を待つ。
  5. e.多職種カンファレンスで方針を決定するまで治療を行わない。

対話形式の解説

ドクタードクター
今回は診断ではなく、医療倫理の判断を問う問題だ。意識のない自殺企図の患者に、緊急の救命手術を行ってよいか。カギは、本人が以前「何を」拒否していたのかと、リスボン宣言が意識のない患者や自殺企図についてどう定めているかの2点だよ。
医学生医学生
本人が手術を拒否していたなら、自己決定権を尊重して手術しない、という考え方もありそうで迷います。
ドクタードクター
そこが最初の引っかかりどころだね。まずリスボン宣言そのものを確認しよう。世界医師会が1981年に採択した「患者の権利」に関する宣言で、良質の医療を受ける権利、自己決定の権利、情報に対する権利などが並んでいる。
医学生医学生
医療倫理の講義で、ジュネーブ宣言が医師の誓い、ヘルシンキ宣言が臨床研究、リスボン宣言が患者の権利と区別して覚えました。
ドクタードクター
いい整理だね。そのリスボン宣言に「意識のない患者」という項目がある。意思を表明できないときは、まず法的代理人から可能な範囲で同意を得る。代理人がいなくて緊急の介入が必要なら、本人の同意があるものと推定してよい。ただし、本人が事前にその状況での治療拒否をはっきり示していたことが明白なら別だ。
医学生医学生
今回は、本人が手術を拒否していたので、その例外に当たるのではないでしょうか。
ドクタードクター
そこをよく読んでほしい。本人が拒んでいたのは「胃癌に対する手術」だ。今回必要なのは「外傷による出血を止める救命手術」。治療の目的も状況もまったく違うから、ある治療の拒否を別の救命処置の拒否と同一視してはいけないんだ。
医学生医学生
確かに、癌の手術を嫌がっていたからといって、出血で亡くなってもいいと意思表示していたわけではないですね。
ドクタードクター
その通り。さらに決定的なのが、宣言の続きにある自殺企図の規定だ。自殺企図によって意識を失った患者については、医師は常にその生命を救うよう努めるべきだとされている。
医学生医学生
自殺企図は本人の意思なのに、なぜ救命が優先されるんですか。
ドクタードクター
大事な問いだね。自殺企図は、うつ状態など一時的な精神状態の強い影響下で起こることが多い。本人が冷静に熟慮した自己決定とはみなさない、という考え方なんだ。今回も癌の告知後に絶望して不安定になっていたという背景がある。加えて夫も救命を望んでいるから、速やかに開腹止血術を行うのがリスボン宣言に沿った対応になる。
医学生医学生
では、手術以外の方法で様子をみる、というのはどうでしょう。輸液や輸血で粘れないかと考えてしまいました。
ドクタードクター
大量の腹腔内出血でショックになっている以上、輸液や輸血だけでは出血源が止まらない。問題文にも救命には速やかな開腹止血術が必要とある。本人の明確な拒否もないのに手術を避ける理由はないよ。
医学生医学生
倫理的に難しい場面なので、倫理委員会や多職種カンファレンスで検討するのが丁寧な気もします。
ドクタードクター
平時ならそれは大切な姿勢だ。倫理委員会は終末期医療の方針や臨床研究の審査のように、時間をかけて検討できる問題を扱う場。多職種カンファレンスも療養方針や退院支援でとても役立つ。でも出血性ショックは分単位で悪化する。協議を待つ間に救命の機会を失ってしまうし、そもそも本例は宣言に照らして判断が明確な状況なんだ。
医学生医学生
本人と夫の意見が違うから他の家族を待つ、というのも同じ理由でだめですね。
ドクタードクター
そう。しかも今回の救命手術について本人と夫が対立しているわけではない。待つことで得られるものは何もなく、失うのは患者の命だ。
医学生医学生
救急科の実習で「迷ったら、まず命をつなぐ」と指導医に言われたのを思い出しました。
ドクタードクター
その感覚は大事だね。ただ、何でも救命優先というわけではない点も押さえておこう。本人が判断能力のあるうちに、特定の治療を明確に拒否している場合、たとえば宗教上の理由による輸血拒否や事前指示があれば、緊急時でもその意思が尊重されうる。今回との違いは、拒否の対象が今の処置そのものかどうか、そして熟慮された意思かどうかだ。
医学生医学生
救命できたら、それで終わりではないですよね。
ドクタードクター
その通り。救命後は精神科医による評価を行い、自殺の再企図を防ぐための支援が欠かせない。家族への説明、精神科治療への導入、そして癌の治療についても改めて本人と向き合って話し合うことが必要になる。救命は、本人が改めて自己決定できる時間を取り戻すための第一歩でもあるんだ。

まとめ

リスボン宣言は世界医師会による患者の権利に関する宣言で、意識のない患者では法的代理人から可能な限り同意を得て、代理人がおらず緊急の場合は同意を推定してよいとしています。さらに、自殺企図により意識を失った患者については、医師は常にその生命を救うよう努めるべきと明記されています。本例で本人が拒否していたのは胃癌の手術であり外傷の救命手術ではないため、出血性ショックに対しては速やかに開腹止血術を行うのが正しい対応で、倫理委員会や多職種カンファレンス、他の家族の意見を待って治療を遅らせてはなりません。一方、判断能力のあるうちに特定の治療を明確に拒否していた場合は緊急時でも尊重されうるため、拒否の対象と意思の確かさを見極める視点が重要です。救命後の精神科的評価と再企図防止の支援まで含めて考えることが、患者の権利を守る医療の実践につながります。

解答・解説

正解はaです

所見の整理

・55歳女性。1か月前に胃癌の診断を受け、数日前から絶望感が強く精神的に不安定であった。 ・自宅マンション8階からの飛び降り(自殺企図)による腹部外傷。 ・大量の腹腔内出血によるショック(出血性ショック)で意識がなく、本人は意思を表示できない。 ・救命には速やかな開腹止血術が不可欠である。 ・本人は以前から「癌に対する手術」を拒否していた。付き添いの夫は止血術と救命治療を希望している。

何が問われているか

診断そのものではなく、意識のない自殺企図患者に対し、緊急の救命処置を行うべきかという医療倫理上の判断が問われている。根拠として示されているのは、世界医師会(WMA:World Medical Association)が1981年に採択した「患者の権利に関するリスボン宣言」である。

考え方

1. 自己決定権:判断能力のある成人患者は、検査や治療に同意する権利も拒む権利ももつ。しかし本例の患者は意識がなく、現時点で自己決定を行える状態にない。 2. 意識のない患者:意思を表明できない患者では、法的な代理人から可能な範囲でインフォームド・コンセントを得る。代理人がおらず緊急の医学的介入が必要な場合には、本人の同意があるものとみなす(推定同意)。例外は、本人が事前にその状況での治療を拒むことをはっきりと示しており、それが明白かつ疑いようのない場合である。 3. 自殺企図の特則:リスボン宣言は上記に続けて、自殺企図によって意識を失った患者については、医師はその生命を救うよう常に努めるべきであると明記している。自殺企図は、うつ状態など一時的な精神状態の影響を強く受けた行動であることが多く、本人の真の意思を反映した「治療拒否」とはみなさないという考え方である。 本例にあてはめると、本人が以前に拒んでいたのは「胃癌に対する手術」であり、「外傷による出血に対する救命手術」を明確に拒否していたわけではない。さらに受傷は自殺企図によるものであり、宣言の自殺企図の項がそのまま適用される。加えて、配偶者も救命治療を望んでいる。出血性ショックは分単位で進行し、止血が遅れれば救命の機会を失うため、ただちに開腹止血術を行うのがリスボン宣言に沿った対応である。

選択肢考察

  1. ○a.  速やかに開腹止血術を行う。

    本人は意識がなく自己決定を行えない状態であり、しかもその原因は自殺企図である。リスボン宣言は、自殺企図により意識を失った患者の生命を救うよう医師は常に努めるべきだとしている。また、本人が拒んでいたのは癌に対する手術であって外傷の救命処置ではなく、推定同意の考え方からも介入は正当化される。夫も救命を希望しており、出血性ショックで止血以外に救命手段がない以上、ただちに手術を行うのが適切である。

  2. ×b.  開腹止血術以外の方法で経過をみる。

    問題文に、救命には速やかな開腹止血術が必要と明示されている。大量の腹腔内出血によるショックに対し、輸液・輸血などの保存的対応だけで経過をみれば出血が持続し、救命できない可能性が高い。手術を避ける根拠となる本人の明確な拒否意思もなく、誤りである。

  3. ×c.  院内倫理委員会を開催するよう要請する。

    倫理委員会は、時間をかけて検討できる倫理的問題(終末期医療の方針、臨床研究の審査など)を扱う場である。分単位で状態が悪化する出血性ショックの場面で開催を待つ時間的余裕はない。さらに、意識のない患者の代わりに倫理委員会が治療方針を決めるという手続きはリスボン宣言にはなく、本例は宣言に従えば救命処置を行うと判断できる状況である。

  4. ×d.  本人と配偶者との意見が異なるため,他の家族の意見を待つ。

    本人が拒否していたのは癌の手術であり、今回の救命手術について本人と夫の意見が対立しているとはいえない。また、自殺企図で意識を失った患者には救命に努めるべきとされており、他の家族の意見を集めるまで治療を遅らせる理由はない。待機している間に救命の機会を逸するため、誤りである。

  5. ×e.  多職種カンファレンスで方針を決定するまで治療を行わない。

    多職種カンファレンスは、医師・看護師・薬剤師・医療ソーシャルワーカーなどが集まって方針を協議する場であり、慢性期の療養方針や退院支援などでは有用である。しかし緊急の救命処置が必要な場面で、治療を保留して協議を優先するのは不適切である。治療を行わない間に出血が進み、救命できなくなる。

リスボン宣言の概要

世界医師会が1981年にポルトガルのリスボンで採択した、患者の権利に関する宣言である。その後1995年に大幅に改訂され、2005年に修正、2015年に再確認されている。主な項目は次のとおりである。 1. 良質の医療を受ける権利 2. 選択の自由の権利(医師や医療機関を選び、変更する権利、セカンドオピニオンを求める権利) 3. 自己決定の権利(判断能力のある成人は検査・治療への同意・拒否を自ら決められる。医学研究や医学教育への参加を拒む権利もある) 4. 意識のない患者 5. 法的無能力の患者(未成年者など。可能な限り本人を意思決定に関与させる) 6. 患者の意思に反する処置(法律で認められ、医の倫理の原則に合致する場合に限り例外的に許される) 7. 情報に対する権利(自分の診療記録の情報を得る権利。逆に、知らされない権利も含む) 8. 守秘義務に対する権利 9. 健康教育を受ける権利 10. 尊厳に対する権利(苦痛緩和、人間的な終末期ケアを受ける権利を含む) 11. 宗教的支援に対する権利

「意識のない患者」の項の構成

a:意思表明ができない場合、法的代理人から可能な限りインフォームド・コンセントを得る。 b:代理人がおらず緊急に医学的介入が必要なときは、本人の同意を推定する。ただし本人が事前に確固とした意思で拒否していたことが明白で疑いのない場合は除く。 c:ただし、自殺企図で意識を失った患者については、医師は常にその生命を救うよう努めるべきである。

関連事項:事前の治療拒否と緊急時

事前指示(アドバンス・ディレクティブ)や、宗教上の理由による輸血拒否など、本人が判断能力のあるうちに特定の治療を明確に拒否している場合は、緊急時であってもその意思が尊重されうる。一方、自殺企図は精神疾患(うつ病など)に伴う一過性の判断能力の低下を背景とすることが多く、本人の熟慮された自己決定とはみなされない。このため救命を優先し、救命後は精神科医による評価と自殺再企図の防止に向けた支援(家族への説明、精神科治療への導入など)を行うことが重要である。

関連する他の宣言

・ジュネーブ宣言(1948年):医師の倫理的責務を述べた、ヒポクラテスの誓いの現代版。 ・ヘルシンキ宣言(1964年):人を対象とする医学研究の倫理原則。 ・リスボン宣言(1981年):患者の権利。

POINT

・リスボン宣言は世界医師会による「患者の権利」に関する宣言である。 ・意識のない患者には、法的代理人からの同意を可能な限り得る。代理人がおらず緊急の場合は同意を推定してよい(事前の明確な拒否意思がある場合は除く)。 ・自殺企図により意識を失った患者に対しては、医師は常に救命に努める。 ・緊急の救命処置が必要な状況では、倫理委員会や多職種カンファレンス、他の家族の意見を待って治療を遅らせてはならない。 ・特定の治療(本例では癌の手術)の拒否を、別の救命処置の拒否と同一視しない。

※問題・正答は厚生労働省の公開資料をもとに掲載しています。