鏡の中の「知らない人」に挨拶する―Alzheimer型認知症と失認
第107回医師国家試験 G問題 第51問
国試問題にチャレンジ
81歳の女性。75歳ころから記銘力の低下がみられるようになり,物忘れ外来でAlzheimer型認知症と診断された。薬物療法や記憶回復訓練を受けたものの認知機能低下は進行し,2年前から介護保険施設に入所している。約1か月前から鏡に映った自分に挨拶し困惑した表情を浮かべていることに施設の職員が気付き,定期受診の際に主治医に相談した。 この患者に1か月前からみられる症状はどれか。
- a.失行
- b.失認
- c.意識障害
- d.注意障害
- e.遂行機能障害
対話形式の解説
ドクター
医学生
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ドクターまとめ
鏡に映った自分を他人と思って挨拶する鏡現象は、見えている顔が誰か分からない状態であり、選択肢の中では失認(相貌失認に相当)として解釈するのが最も適切です。失認は感覚や全般的知能が保たれているのに特定の感覚経路で対象を認識できない状態で、声など別の手がかりがあれば分かるのが特徴です。失行は理解も意欲もあるのに目的の行為ができない状態、遂行機能障害は計画と実行の障害、注意障害は集中や切り替えの障害であり、認知症は意識清明下の障害である点で意識障害(せん妄)とも区別されます。Alzheimer型認知症は近時記憶障害で始まり、見当識障害、視空間認知障害、失語・失行・失認へと進むため、症状の進み方を知っておくことが評価やケアに役立ちます。高次脳機能障害の用語を正確に使い分けることは、国試対策だけでなく、多職種で患者の状態を共有するうえでも欠かせない力です。
解答・解説
正解はbです
所見の整理
・81歳女性。75歳ころから記銘力(新しいことを覚える力)の低下で発症し、Alzheimer型認知症と診断されている。 ・薬物療法やリハビリテーションにもかかわらず認知機能は進行性に低下し、施設入所中である(中等度~高度の段階に進んでいると考えられる)。 ・約1か月前から、鏡に映った自分に向かって挨拶し、困惑した表情を見せる。
症状の解釈
鏡に映る姿は見えており(視覚そのものは保たれている)、それを「人」として捉えて挨拶するという社会的な行動もとれている。しかし、その人物が自分自身であるとは分からず、見知らぬ他人として扱っている。つまり、視覚情報は入っているのに、それが「誰の顔か」という意味づけができない状態であり、視覚性の対象認知の障害、すなわち失認(ここでは顔を識別できない相貌失認に相当する)と解釈できる。 このように鏡像を自分と認識できず、話しかけたり挨拶したりする現象は「鏡現象(mirror sign)」と呼ばれ、Alzheimer型認知症の進行期にみられる特徴的な症状の一つである。
考え方
設問は「1か月前から新たにみられる症状」を問うている。失行・注意障害・遂行機能障害もAlzheimer型認知症の経過で出現しうる症状だが、本文に示された「鏡の自分に挨拶して困惑する」という行動を最もよく説明するのは、見た対象が何(誰)であるかを認識できない失認である。高次脳機能障害の各用語の定義を正確に押さえ、提示された症状に当てはめることが求められる。
選択肢考察
- ×a. 失行
失行とは、運動麻痺や感覚障害、失調などの要素的な障害がなく、何をすべきかも理解し、行う意欲もあるのに、目的に沿った動作や行為を正しく遂行できない状態である。服の着方が分からなくなる着衣失行や、道具の使い方を誤る観念失行などがあり、Alzheimer型認知症でも頭頂葉の障害とともに出現する。しかし本例の問題は「鏡の人物が誰か分からない」という認識の障害であり、動作の遂行の障害ではない。
- ○b. 失認
失認とは、視覚・聴覚・触覚などの感覚そのものや一般的な知的機能の低下では説明できない、特定の感覚経路を通した対象の認知障害である。本例は鏡に映る姿は見えているのに、それが自分の顔であると識別できず他人として挨拶しており、よく知っているはずの顔を見分けられない相貌失認に相当する状態と考えられる。相貌失認では、声を聞くなど視覚以外の手がかりが加わると誰であるか分かることが多い。Alzheimer型認知症の進行期には、このような鏡像の誤認(鏡現象)がみられる。
- ×c. 意識障害
意識障害とは、外界の刺激を受け取って認識し、それに反応して自己を表出する機能が低下した状態で、覚醒度の低下(傾眠~昏睡)や、せん妄のような意識内容の変化を含む。本例は鏡の像に挨拶し、困惑した表情を見せるなど、覚醒して外界に応答しており、意識障害を示す所見はない。なお認知症は原則として意識清明下で起こる認知機能の障害であり、この点でせん妄(意識障害)と区別される。
- ×d. 注意障害
注意障害とは、多くの刺激の中から必要なものを選んで意識を向けること、ひとつの対象に集中し続けること、状況に応じて注意を切り替えることなどがうまくできなくなった状態である。本例は鏡の像にしっかり注意を向けて挨拶しており、注意の配分や持続の障害で説明できる症状ではない。
- ×e. 遂行機能障害
遂行機能障害とは、目標を設定し、計画を立て、手順どおりに実行し、結果を見て修正するといった一連の行動を論理的に組み立てることや、状況の変化に柔軟に対応することができなくなった状態で、主に前頭葉の機能低下と関係する高次脳機能障害である。料理の段取りが組めないなどの形で現れ、Alzheimer型認知症でも生じうるが、鏡に映った自分を他人と取り違える症状は計画・実行の障害では説明できない。
Alzheimer型認知症の症状の進み方
・中核症状(認知機能障害): 記憶障害(特に近時記憶の障害)で始まることが多く、見当識障害(時間→場所→人の順に障害されやすい)、遂行機能障害、失語、失行、失認などが加わっていく。頭頂葉・側頭葉の障害を反映して、視空間認知障害(道に迷う、図形の模写ができない)もみられる。 ・行動・心理症状(BPSD: behavioral and psychological symptoms of dementia): 物盗られ妄想、徘徊、興奮、抑うつ、アパシー(意欲低下)など。 ・進行期には、鏡に映った自分に話しかける鏡現象、家族を他人と取り違える人物誤認などがみられることがある。
主な高次脳機能障害の整理
・失語: 言語の理解・表出の障害(運動性失語、感覚性失語など)。 ・失行: 麻痺などがないのに目的の行為ができない(観念運動失行、観念失行、着衣失行、構成失行など)。 ・失認: 感覚は保たれているのに対象が何か分からない(視覚性失認、相貌失認、聴覚性失認、半側空間無視、病態失認など)。相貌失認は両側または右側の後頭側頭葉内側(紡錘状回付近)の障害で典型的に生じる。 ・注意障害: 集中や注意の切り替えができない。 ・遂行機能障害: 計画を立てて実行することができない(前頭葉機能)。 ・記憶障害: 新しいことを覚えられない(海馬・側頭葉内側など)。
失認の定義のポイント
失認は、視力低下や難聴などの「感覚の障害」や、全般的な知能低下では説明できず、特定の感覚経路に限って対象の認識ができない状態を指す。別の感覚経路(顔が分からなくても声で分かる、見て分からない物も触れば分かる)では認識できるのが特徴である。
POINT
・鏡に映った自分を他人と思って挨拶する(鏡現象)は、見えている顔が誰か分からない失認(相貌失認に相当)として解釈する。 ・失認は、感覚は保たれているのに特定の感覚経路を通して対象を認識できない状態である。 ・失行は理解も意欲もあるのに行為ができない状態、遂行機能障害は計画して実行する能力の障害である。 ・認知症は意識清明下の認知機能障害であり、意識障害(せん妄)とは区別する。
